戦争の日本中世史 呉座勇一

戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)

戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)

▽蒙古襲来のとき、鎌倉幕府は朝廷には返牒を拒否するように言いながら軍備を怠るなど平和ボケ状態だった。それでも文永の役は、まずまず相手に打撃を与えた。「八幡愚童訓」は性格上、武士が活躍しては困る文書。一円化の背景には、軍事動員もあるが、所領が広がらなくなり集約的な農業をしようとすると「職」の体系が邪魔になったことがあるのでは、と。そして貨幣の流通は、元が紙幣流通のためにそれまで宋が発行した貨幣の中国国内での流通を禁じたから。鎌倉幕府滅亡は、勝ち続けてきた幕府が楠木に難渋することで、「幕府のない世界」を人々に想像させてしまったからでは、と。▽後醍醐天皇は、あっさり幕府が倒れたことで自らを勘違いしてしまった。武士たちは、勇躍戦場に臨んだのではなく、相続や周りからののっとりに心を残しながら、時に「危機管理システム」として一揆を結びながら進んだ。▽南北朝後、遠国のことはとりあえず放置する、ということで平和が維持された。それを、足利将軍家が介入することで、やがて鎌倉公方という共通の敵を失った幕府は乱れ、応仁の乱へと進んでいく。