鎌倉幕府滅亡と北条氏一族 秋山哲雄

▽蒙古襲来に備える重要拠点の守護となる幕府の上層部の代理として、子や弟が赴く。六波羅から鎮西に向かう場合はいったん鎌倉に戻ってから、という例を重んじる。現地で死去した場合、子が鎌倉生まれであれば親の地位を引き継ぐ。縁起担ぎである。時宗の甥で猶子の兼時は、父・宗頼に従い、長門へ。父の死後に守護を引き継ぎ、播磨・六波羅南方・北方・鎌倉、そして異国打手大将軍。鎌倉に戻って間もなく死去。生きていれば、宗方か、師時クラスにはなっただろう。▽霜月騒動で、西国の本所一円地住人を御家人とする政策を否定しつつ、六波羅は朝廷や荘園領主の依頼を受けて、悪党を敵とせざるをえなくなる。その負担が東国にもおよび、守護でなく既得権益だった東国にも幕府の統制が及び、不満が募っていく。鎮西探題は、幕府がある間は御家人を統制できたが、幕府崩壊後は御家人にとって無用のものであり、襲撃されるに至る。