日本を相対化する、という意図で書いたそうだ。当たり前の前提としている部分(不勉強なだけだが)を改めて突き詰めて分析されてみると意外にも、という感じだ。▽「三 大王(
天皇)にも姓があった」では、
倭の五王のとき、「倭」という姓を名乗っていたが、その後しばらく
朝貢体制から遠ざかりその後復帰してからも
冊封は受けなかった事情から、と分析している。▽「六 日本の国号の成立」では、天武・持統の「日」
イデオロギーの高揚が影響しているとみる。仮に
壬申の乱が失敗していたら、
天智天皇は
諡号「天命開別」からも「天」の意識が強く、日本という国号はなかった、としている。▽「七
大仏開眼と金」では、金の産出は
朝鮮半島へのコンプレックスを解消し、逆に777(
宝亀8)年には、
高句麗の後継とする
渤海に金を贈っている。この頃は、
天皇の権威のために、
仲麻呂は
儒教による仁政・
道鏡は仏教を掲げた。また、近代からのまなざしとして、西洋と古代を結びつけようという見方、
法隆寺の柱のふくらみ=エンタシス=
古代ギリシアが「学問的にはまったく根拠がない」と切って捨てられている。
遣唐使と
律令継受も明治の遣米
使節と西洋法の継受に、江戸期までの美の伝統だった
古今集から、近代になって
万葉集の評価が高まる、など。▽「八 ヤマトの古典的国制」では、奈良から平安初期くらいに完成したとし、
律令国家は建前としては蕃夷を従えているものだが、大八州(本州・四国・九州・
対馬・
壱岐・
隠岐・淡路・
佐渡)に
天皇の徳を限定し、
新羅からの移民は
帰化であっても拒むようになる。外側は穢れたものとし、内側は、さまざまな差異はあったにせよ、人類史的には相対的に少ない状況になっていく。